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清水 (1934), pp.229, 230
東海道筋には私の故郷である高槻の郷は近いのである。
必ずお母あは人家の多い高槻で稼がすだろう。
私は乞食になってもまだ人家の門に立ったことはないのである。
果せるかな。
翌日は高槻の町にお母あ自慢の好い声で、御詠歌を流すのである。
しかもそれが地蔵和讃の節付けであった。
父を思い母を思う人間至情の悲しい曲である。‥‥‥
お母あや姉の声はますます身に泌みて来るのである。
骨にまで泌みて来るのである。
無邪気な丹波の子供は披足を曳きながら、素直に物乞いをして歩いている。‥‥‥
高槻の町は昔から千軒あると称えている。
田舎としてはかなり大きい町の一つである。
お母あや姉の地蔵和讃は繰返し繰返し称えられて行くのであるが、なかなか歩みは捗らない。‥‥‥
川之町辺りまで来た頃、地蔵和讃の声が、にわかに三十三番の札所を歌う御詠歌に変って来た。
一番紀州の那智山から三十三番美濃の谷汲山までの御詠歌を歌うのである。
二十二番勝尾寺、二十三番総持寺とお母あは流してゆく。
勝尾寺も総持寺も共になっかしい故郷の札所である。
私はかつての一夏勝尾寺に過ごしたことがある。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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