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清水 (1934), p.225
今日は初めての乞食である。
チャンに聞くと乞食の初歩は土下坐して乞うのが一番楽であるとのことであった。
乞食としては比較的静的の修業である。
一軒一軒自由に門口に立つなどはなかなか難かしいとのことであった。
少くとも二三年を経なくては駄目だと云う。
「若、お前は姉と一諸に出て行けよ」。
姉とはチャンの娘であった。
とても一人では出て行けないものである。
せめて夜分ならばとさえ思われて、いよいよ出るとなると気後れがする。
白日に顔を晒す。
禅の修行当時は雲水の衣を借りて雲水の後から托鉢行乞した事はあったが、本当の乞食は今日が初めてである。
穢れた手拭いと着物をもらって姉に連れられて行くのであった。
チンピラ (小さい子供のこと) が二人ほどついて来る。
天王寺の南門、ちょうど聖徳太子の御殿のある方であった。
生憎に今朝からの小雨でまだ土は濡れている。
他のものは平気で坐るのであるが容易に坐れない。
雪中の坐禅を忘れたのかと心を鞭打ちつつ土下坐した。
黙々として頭を垂れるのみである。
行き交う人の視線はこの新入り乞食に注がれるように思われてならない。
アア若い奴が乞食をしているなどと瑚笑されると、すぐにも、俺が乞食をしているのはどんな気持ちか判るかいと土下坐どころでない。
かえって人の頭をなぐりつけるような気持ちが生れて来る。
ああ、所詮私は乞食になり切れない。
一銭の銅貨は飛んで来た。
しかし皆投げてくれる。
すると、人に物を与えるに投げるとは不所存な奴と倣慢な気持ちがムクムクと頭を上げて来るのである。
大抵恵んでくれる人達も本当の心から恵んでくれる人はほとんど無いような気持ちさえするのである。
一種の優越感の満足としか響いて来ない。
そうした響きを感ずるとき、ありがたいと言う気にはなかなかなれないのである。
乞食は物貰いが商売であるから、貰ってやるものという気持ちはするが、心の底からは満足して貰うことは出来ないのである。
土下坐して一切の前にひれ伏すことは容易ならぬ修行である。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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