「腐敗」は,菌類の作用としては「発酵」と同じである。
食えると「発酵」と言い,食えないと「腐敗」という。
こういうわけであるから,腐敗食物への体の適応 (「美味い」にまで進む) は不思議なことではない。
実際,人間以外の動物ではふつうのことである。
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清水 (1934)
p.264
紀州は単なる乞食とは云い得ないのである。
決して物乞いして歩かなかった。
何時も食物を拾って歩くのであった。
果実の腐ったもの、バナナの皮、蜜柑の皮、パン片、ほとんど食し得ないものを拾って食っていた。‥‥‥
ある日私は少しく早く物乞いを終えて帰って来たことがある。
すると美味しそうに汁を吸うている。
いつもニコニコしているのであるが、紀州の破顔微笑はなんとも云えぬ親しみを感じるのが常であったが、今日はことさらニコニコしている。
「若、早いね。粕汁一杯吸わんかい」
「大変な御馳走だね」。
紀州には珍らしい事である。
私は早速一杯貰おうかと言うと、破れた土釜で粕汁を煮ているのであるが、それを欠けた茶碗に盛って出してくれた。
口まで持って行くと臭くてとても吸えないのである。
私は美味しそうに吸う紀州が羨しく思えるのであった。
「若、どうしたのか」
「ウン臭くて駄目だ」。
すると紀州は、
「罰当たり奴」
と叱る。‥‥‥
pp.264, 265
「 |
若、乞食も腐った汁をありがたくもったいなく戴けるようにならねば駄目だぞ。
しかしそれになるまではいろいろの関所を通って来るのだ。
私は苦労はして来たが仰げばいよいよ高しじゃ。
若、お前もまだ若い、しっかりやれよ。」‥‥‥
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p.268
ある時私は紀州に、なぜ拾って食っていて乞食をしないのかと尋ねたことがある。
すると紀州は、俺も初めは乞食をしておったが、与えられるままをすなおに戴いていればよいのであるが、いつの間にやら貰うための乞食になり、乞うための技巧が生れて来て困る。
それが恐しくなって来たので拾うて食うことにしたのだ、としみじみ云ったことがあった。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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