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清水 (1934), pp.261,262
私が乞食の群れに投じたのは冬の二月であった。
厳寒の折である。
夜も更けて来たのであった。
老婆が、若、早う寝んかい、と促すのである。
子供らは寝よ寝よと言いながら寝に就こうとしているのであった。
しばらくすると薄っぺらな襤褸を出して来るのである。
ちょうどそれは六畳敷もあろうと思われるのであった。
私は、これが蒲団の代りをするものらしいと思っていた。
すると皆がくるくると素裸になるのである。
一衣も纏わずに生れたままになってしまう。
そしてくるくるとその継ぎはぎの風呂敷の大きなようなものの中に入ってしまうのである。
こうした人達は敷蒲団は用いないのらしいと思った。
しかし私は驚いた。
この寒さに素裸のまま一枚の襤褸に包まれて寝る。
私はまだ皮膚の訓練がそれまでになっていないのであった。
僧堂の修行、山林独坐の生活もそれに似たものではあったが、まだそこまでは徹底していなかったのである。
私はちょっと躊躇しながら、お母あ、皆裸になるが着物を脱がないといけないのかい。
すると老婆は、いけないということはないが、着物を着たまま寝ると虱で困るぞというのである。
実際は一人位が衣服を着たまま寝る時には虱で困るのである。
乞食は習慣になっているので一向平気である。
一種の免疫であろう。
私はちょっと素裸になってみたが駄目であった。
ついに着物を着るほかなかったのである。
私はその時に初めて味わった。
まだ乞食の子供らは寝に就かないので、よいお月さんだなあ、などと寝ながら隙間洩る月を観賞しているのである。
その悠々さには驚いたのである。
決して私は乞食になれとは言わないが、その悠々さはせめて現代人にはありたいものである。
皆は寝に就いたが、なかなか私は眠られない。
隙間洩る風は身に泌みる思いさえする。
私はしみじみ自分のまだ修行の足りなさを味わうのであった。
翌朝であった。
私は前晩眠らなかったものだから、ちとぼんやりしていたものらしい。
すると老婆は、
「若、何をぼんやりしているのかい」
と尋ねるのであった。
私は、
「昨晩寝られなかったからね」。
すると老婆は、
「そうかい気の毒なもんだね」。
‥‥‥
老婆はさらに言葉を次いで、
「若、なんで寝られなかったのだい」
と尋ねるのである。
私は、
「冷たくてね」。
そうすると老婆は、
「お前はまだ生身のほんの温かいことを知らないね」
というのである。
さらに、
「 |
若、まだお前は年が若いから無理もないが、わしらは生身の温かいことを味わわねば駄目だぞ」
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と言ってくれるのである。
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Cf. 「アイヌの子どもは裸」
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同上, p.265
紀州は決して小屋の中では寝ない。
いつも大空を戴いて土の上へそのまま寝る。
そしてこの大きな空を味わえ。土の温かいことを味得せよ、などと云ってくれた。
ある朝である。
冬の始めの頃であったが、例の如く裸身のままで土の上へごろりと寝ているのである。
そして蓆被っていた。
蓆には霜さえ積んでいる。
私は驚いて、紀州冷たいことはないかい、と心配すると、寝たまま蓆をまくして、大地が冷たいなどと言うているものにどうして大地の温かみが解るかい。
この頃の奴らは言葉ではいろいろ言うが、土の温かみを知らないで天地間の温かみが解るものでない。
天地の温かみの解らないものは人間の温かみをも知れたものでない、と呵々大笑しているのであった。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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