Up 乞食は乞食をどう思うか 作成: 2025-02-06
更新: 2025-02-06


      清水 (1934), p.219,-220
    夕方から蜜柑山へ行った。
    片手には一升徳利を、片手には牛肉の包みを持って。‥‥‥
    半丁ほども手前にまで近寄った頃、「おお若さん、また来たのかい」と丹波と称するのが突然後から声をかけるのであった。
    その頃私はネス [一般人を呼ぶ符牒] さんから若さんになって来たのである。‥‥‥
    私は関東という人の居る小屋へ行った。
    「おい関東さん一杯やらんか。肴も持って来たぞ」。
    関東の小屋には十人程の人がいたが、比較的子供が多いので、もう子供らは寝所へ入っている。
    「おお若さんか、今夜は御馳走だね。それでは頂こうか」と早速用意にかかる。‥‥‥
    「関東さん、私をこの仲間へ入れてくれないか」。
    すると関東は私の顔を凝視しながら、「若さん本当かい。本当ならそれはやめるがよいや。私らは親からの代々乞食だから、仕方なしじゃが、決して乞食なんていうものはよいものじゃあない。こうした境界へ一度入るとなかなか足が洗えないんだ。私らの仲間は比較的代々乞食が多いが、中にはネスから落ち込んで来る人もあるが、一度落ち込めば駄目だといっている」。
    なかなか仲間入りを承諾してくれないのである。
    こうした人達も自分の境界を絶対によいものとして満足してはいないらしい。
    そしてやはり他のものを美しく見ている。
    乞食の同化事業なども絶対不可能なものでないと思われるのであった。
    「関東さん、子供らは普通の人にしてやりたいかね」。
    すると関東は、「そりゃ、子供は出世さしてやりたいわ。しかし私らでは駄目だからな」。
    こうした乞食の人達はただ余儀なく(わる)落ち着きに落ち着いているものが多い。
    自分の境涯に絶対安心しながら生死を自然に托する行乞は、やはり桃水や大灯国師などの人において味わわれる境涯なのである。


      同上, pp.211-223
    娘はさらに言葉を次いで、
    「若さんは皆が苦労人だと言っているよ。本当に苦労人だね」
    (この社会では自分らを真に理解してくれる人を苦労人と言うのである)。
    「姉さん(この社会では娘らに対する最尊称なのである)、お前はまだ若い人だがなぜ乞食などしているの。何でも働けば働けるじゃないか」
    と尋ねると、娘は、
    「私は乞食の子供だから乞食するほか仕方が無ドんだよ。世の中はなかなか難かしいものだね」と言いながら後は言わないのである。
    「姉さん、乞食の子供だからと言ったって、どうでも乞食をせんならんことはないじゃあないか」
    「若さん、お前も苦労人だけれども、まだ私らのことは解らないね」
    「それでは乞食三日すれば忘れられぬと言うが、面白いのかね」。
    すると娘は顔を上げて
    「それは乞食をしないものの言うことなんだよ。乞食の境涯では乞食三日の辛さが生涯忘れられないと言うんだよ」
    と娘の言葉は鋭かった。‥‥‥
    娘は埼玉県で生れたそうである。
    親が乞食であるが故に、ただ乞食をして歩いて来た。
    子供の頃は本当に楽しかったと言う。
    泥べたの土下坐も苦ではなかった。
    冬の寒さも他人の思うように苦しいものではなかった。
    しかし十四五歳にもなると、そろそろ苦の世界へ入って来る。
    しきりに前途の事などいろいろ考えられた。
    自分も尊い人間に生れて来て、それに非人と云う人でない者だ、と思うと、どうしても乞食をして歩けなくなった。
    せめて人間らしいくらしをしてみたい。
    いろいろ考えた末両親に頼んで東京へ出た。
    そしてある家庭に住み込んだ。
    せめて女中奉公しながらも人の生活をしたいと思うたのである。
    こんな光明と希望に輝いた生活は無かった。
    半年ばかりは嬉しく過ごしたのであった。
    人らしい人になる、どんな辛いことでも苦ではなかった。
    一生懸命にやりながら夢のように半年を過ごしたある日、一人の若い娘乞食が門口へ物乞いに立った。
    御主人は気の毒に思われたらしい。
    一銭の銅貨を托されたのである。
    彼〔女〕は半年以前の自分を想い出しながら門口に出た。
    世の中には同じような境涯の人もある。
    運命は皮肉なものと思いつつ何気なくお金を渡そうとするとそれは自分の妹であった。‥‥‥
    奥さんはあまりに時間が経っても入って来ないので見ると睦まじ気に二人が語り合っている。
    気がついて家に入ると、出し抜けに奥さんに尋ねられた。‥‥‥
    早速に返事が出来なかった。
    しかし尋ねられるままに黙っている訳にも行かぬ。
    「実は今日まで、お話しする機会がなかったのですが、私は乞食の娘として生れて来ました。親が乞食であるが故に、何も知らず今日まで乞食をして歩いて来ましたが、しかし私も尊いお天道さんの子です。それを思うとどうしても人間らしくなりとう御座います。どうか相変らずお使い下さい」
    とお願いした。
    すると奥さんは、
    「聞けば気の毒な点もある。使ってはやりたいが、お前の親や兄弟や友達に乞食がおって、お前のここに居ることが判ってみると時々は必ず訪ねて来るに違いない。そうたびたび乞食に訪ねて来られては家の者も迷惑する。また世の中は難しいもので、かえってそれが私の家の商売に障りが起って来ないとも限らない。折角のことでお前には本当に気の毒であるが、どうか今日限り暇を取って帰ってもらいたい」。
    ついに余儀なく暇を取るよりほかなかったと言う。
    悲観しながら家を出た。‥‥‥
     翌る日は畑草の専売局へ女工を志願したのであった。
    幸いにして体格の検査も済んだ。
    使用してやるが戸籍謄本と保証人の判を貰って手続きをするように、とのことであった。
    そこでまた行き詰った。
    無籍者である。
    しかも人の嫌う山窩(サンカ)の娘である。
    結局使ってもらうことも出来ず、求めても求めても彼〔女〕は乞食の娘であるより仕方がなかった。
    どうしても人間らしい生活が出来ずついにこうして不思議な運命に弄ばれながらも乞食をしているのであるが、時々私のような業を背負って生れて来たものはいっそ自殺でもしてしまおうと思う。
    人間に生れて来ながらも希望に生きて行くことも出来ず、また光明に触れることも出来ないで、暗闇から暗闇へ、悩みから悩みへと落ちて行くほかないのが自分の一生かと思うと泣く事さえも出来ぬほどに藻掻(もが)くことがある。
    こうした私らの境遇を多くの人達に理解してもらうにはあまりにも距離があり過ぎるような気もする。
    仏や神は人間を救うものと聞かされますが、そうした救いがあるならば、なぜ一日も早く私らが救われないのかと思うとそうした言葉も何だか夢のような気がします、と娘は語るのであった。


      同上, p.223
    私は決心して、チャン [乞食の頭] に自分を仲間に入れてくれるように頼んだのである。
    チャンは関東人であった。
    おい若さん、お前のことだからまさか酔狂ではなかろうが、なかなか私らの仲間の生活は苦しい場合も多いのだ。外から見るようなものとは違うのだ。
    なんでも貰いに出なくてはならぬ。なかなかその貰いが馴れるまでは辛いものなんだ。
    私らは子供の時分から馴れて来たが、それでも時には死んでしまおうかと思うたことさえあるのだ。若い時分はなおさらのことである。
    お前さんはなかなかの苦労人だが、時々乞食の仲間に遊びに来ている客分と、真物の乞食はまた違うからなあ。まあよく考えてみるがよいよ。
    この間俺の娘が他の小屋で休んでおったとき、お前さんはいろいろと話して帰ったそうだが、決して悪いことは言わぬがね」
    としんみりと教えるが如く、また諭すが如く語るのであった。
    私はなんとなくこのチャンの人格に魅せられる思いがするのであった。
    数百人の頭になるものだ。
    人物が大きい。
    そして一種の温情と識見とを持っている。
    この間の娘はチャンの娘であったのか。
    こうした社会ではチャンは絶対の権威者である。
    その娘に生れて来た彼〔女〕ではあるが、悩む彼〔女〕にとってはチャンの権戚も問題にはならないのである。



    引用文献
      清水精一 (1934) :『大地に生きる』
        谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.