ひとは,競争社会に生きる。
これは,競争に疲れるという生き方である。
疲れると,競争に厭気がさす。
そんなとき,競争にあくせくする自分の真逆のように見えるものに,憧れを抱き,美化する。
そして,あるタイプの者は,「乞食」をそのようなものにする。
その者が乞食に見ようとするものは,「愚禿・無欲・謙譲」である。
これは所詮,幻想である。
しかしこのタイプの者は,この幻想が救いになり,この幻想を頼みとするのである。
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清水 (1934), p.217
地上の生活で一番素直に、恵まれるままに生きてゆくものは乞食であろう。
大地にひれ伏して土下坐している姿は、何としても謙虚そのものとしか見えないのである。‥‥‥
由来人間の生活は、詮じ詰めると乞食的か泥棒的かの二つのいずれかであると思う。
近来の吾らはむしろ泥棒的に生きているのではあるまいか。‥‥‥
乞食は一銭のお金にも「ありがたい」と感謝とお礼を述べる。
そこに殊勝さがある。
自然よりそのまま恵まれる自然生活は識らず、少くとも人間からの恵みに生きるものは所詮が乞食に落ち着くであろう。‥‥‥
ある日私は路頭に一乞食を見たのであった。
雨降りの翌日であった。
坐している街頭は泥々である。
行き交う人々は一銭二銭と投げ与えるのであるが時には銅貨がその顔をすら打つのである。
乞食は平然として坐している。
地から生えているように。
そして頭を土にすりつけて垂れるのであった。‥‥‥
大地にひれふす姿、それこそ愚禿の相であろう。‥‥‥
私の心はしきりに動くのであった。
天地自然の心を心とする生活は一応愚禿の心を味わう乞食であろう。
ますます私は乞食に引き付けられるのであった。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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