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清水 (1934), pp.269, 270
同朋園は、吾はどう生きるかという一人の道と言うよりか、吾々はどう生きるかと言う共に歩む道についての直参である。
そして特別人としての生きて行く道でなくて、平凡道を歩んで行きたいのである。
願いから一言えば、全を生かすために個があまりに傷つけられないように、また個を生かすために全の調和を破壊しないように、個と全との調和を保ちつつ、白色白光、赤色赤光に生きて行きたく思う。
今は神戸の裏、六甲山の西北麓にあって百姓をしている。
山林を開墾しつつ吾々の生きて行く諸般の問題について、実際に参じて味わいつつ、地に坐しながら、平凡な百姓として生きる経済問題の根本にも触れて行きたいと思っている。‥‥‥
園の誕生の動機は乞食狩りから始まったのである。
こうしたことに出合ったのは一再ではなかった。
前にも話したが、その時皆のものは何もかも捨ててしまって逃げたのである。
そして長柄の仲間へ落ち着いた。
やっと安心していると、また夜分そこにも乞食狩りがあってまた逃げなければならなかった。
とうとう二十人ほどは捕まって今宮署の留置場へ投げ込まれたのである。
私はその時、他の乞食のものに逃げなくても生きて行ける生活、本当にどっしりと坐って行ける生活になろうではないかと勧めたのである。
いろいろ意見もあり困難であったが、結局それでは私が引き受けるから、どうじゃと相談したものだ。
すると、初めて乞食をやめると言うものも出来て、かなり多くの意見がまとまったので、私は早速警察署にその乞食を貰いに行った。
「署長さん。乞食狩りをおやりになれば、乞食はどうなると思われます」
「それはどこかへ逃げて行くだろう」
「逃げて行って結局どこへ行くでしょう」
「それはどこなりと行くだろう」
「そのどこなりと行って何をするでしょう」
「それはやはり乞食をするだろう」
「そうすると、ここで乞食するのとどこかで乞食するのとどう違うのですか」
「それは結局同じ事だろう」
「同じ事では仕方がありませんが、何とかよい方法はありませんか」
「乞食はどうにも仕方のないものだね」
「仕方がないって仰言って、結局どうなります」
「そりゃ結局仕方がない」
これはその時の署長さんとの話であるが、今の世の中では乞食に対しては本当に仕方がないのである。
しかし仕方が無いからと捨てておけばなおさら仕方が無い。
それで私は署長さんにお願いした。
「私にその乞食を貰えませんか」
署長さんは妙な顔をして私を凝視しておられる。
「そんなものどうされます」
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私は乞食をやめて働く人間になりたいと思います。しかしその準備を具体化するまでは今のままでいることをお許し下さい。すぐにもその準備にかかりますから」
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と言う訳で警察署の了解を得たのである。
今の世の中では乞食に対する救済策は講じられていない。
ただ本籍地に返還してその村が養うことになっているのであるが、錦を飾って故郷に帰るということはあるが、乞食の襤褸を纏って帰れるものでもない。
いわんや無籍者はなおさら行く所はない。
私は早速に方面委員の方々に相談した。
そして篤志のある方と相談の上、とりあえず養老院の古小屋を改造してようやく数十人の生活が始まったのである。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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