Up 宗教 作成: 2025-02-07
更新: 2025-02-07


      清水 (1934), pp.245, 246
    乞食の宗教であるが、人間と宗教心とは離れることの出来ぬものである。
    人間の生きて行くこと、それ自体が宗教心と離れて生きて行けないのである。
    元より知のない人達であるから、智慧の光明としての宗教などは解ることが出来ないが(しかし特殊の人には驚くべきものを持っている)、原始的宗教心はこうした人達の精神生活を相当に支配している。
    ことに生活が泥棒に比して乞食はそれ自身がよほど宗教的なのであるから、自然に醸成されている宗教心は時にうれしく味わうことが出来る。
    すべての人達を通じて著しく発達しているのは自然崇拝の宗教である。
    朝起きると皆は必ず太陽を拝む。
    そして太陽などとは言わない、お天道(てんとう)さんとか日輪さんとか呼んでいる。
    子供に到るまでこれは拝むのである。
    月夜の晩は月を拝む。
    また大木、大いなる岩などに対しても宗教的心情で接する。
    もちろん生活がこうした原始的な関係もあるので、大木などは直接思恵を感ずるのである。
    一樹の蔭などの言葉は、自然を相手としての漂泊人でなくては味わい得ないものと思われる。
     それに生殖器崇拝に近い宗教心も少しは見受けられるのである。
    性に対してはすこぶる羞恥の観念に乏しいのであるが、生殖器に対しては一種の神秘を感じているのである。
    ああしたところから子供が生れて来るなどは、無智なる原始人にとっては一種の神秘であり、また常に新しき驚異のものに感ぜられるのは無理からぬことであろう。
    我が国の既成宗教の中で一番因縁の深いものは言うまでもなく仏教である。
    僧侶と乞食とは不可分のもので、ことに昔から大灯国師の如き、あるいは桃水禅師の如き大徳がそうした群れに入られた関係上、一部の種類には知らず識らずに感化を受けていることは事実である。
    また救済せんとする大願を以つて入ったがついには乞食になってしまった人もかなりあるように思われるのである。
    乞食の持つ特別な言語の中には仏教から出た言葉が非常に多い。
    乞食自身を法衣徒(ほいと)と言うが如く、また米を舎利(しゃり)と称えているように仏語がたくさんある。
    特に真言宗の弘法大師を崇拝しているものが一番多い。
    それは御詠歌を流して歩く関係と、弘法大師の御縁日には常に物貰いが多い関係で直接に触れて行くからであろう。
    仏閣、神社と乞食とは昔から不思議に因縁付けられているものである。



    引用文献
      清水精一 (1934) :『大地に生きる』
        谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.