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清水 (1934), p.239
乞食は吾々一般人のように自由に娯楽を求めることが出来ない。
人間と娯楽、それは離すことの出来ぬものである。
娯楽の対象こそ違うが、何らかを求めずにおれないのが人間である。
乞食の娯楽の唯一なるものは飲酒と食物である。
食う飲むということが単なる栄養ということでなくて、本能を満足さす唯一の娯楽なのである。
それだけ美味を貧る。
吾々はよく乞食の食うようなものが食えるかいというが、実は乞食のようなものが食えないのである。
毎日とはいかないが、貰いの多かった時などは随分御馳走をする。
そして大いに飲む、大いに食うという訳だ。
不幸にして貰いの少ない時は腐ったようなものでも満足せねばならぬ。
都会にはいろいろの商売があって、乞食を相手にして商売をやっている者もある。
比較的物貰いの少ない時は残飯屋さんへ買いに行くのである。
都会の残飯は比較的美味いものだ。
牛肉屋、鶏肉屋の残りを集めてそれを売っている家がある。
それを買って来ては雑炊にする。
私は本当に雑炊がすきであった。
何もかも雑然としているようであるが、それが都合よく配合され融合されてやはり一つの味である。
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同上, pp.239, 240
次に求めるものは賭博である。‥‥‥
元来こうした社会での賭博は厳密に言えば賭博にはならないのである。
なぜならば、こうした社会は物質は大家族的共産であるからであって、勝っても負けても結局においては同じであるが、その時の勝負を争うに何物かを賞品的に提供してあるのが興味を一層高めるからである。
しかし一般人に生活を転向したとき、その習慣の容易にやまないのに閉口した。
娯楽というものもそれが高尚になって来ればよいが、比較的下等とも言うべき趣味から生じている娯楽は、なかなかその向上を図るのに難かしい。
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同上, p.240
芝居、活動写真なども皆好むところであるが営業者が皆嫌がってなかなか見せてくれない。
それでもちょっとした着物に着替えて場末である三文芝居や下等の活動写真にはよく行くのである。
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同上, p.240
ただ驚くべく上手なのは自然的音楽であって、彼らの食以上の唯一の娯楽である。
尺八、篠笛、あるいは横笛などすこぶる妙である。
月光の下に真に迫る尺八の音に自らが酔っているが如く悦惚とさせられたことがある。
原始人と音楽とは微妙な関係を持っている。
南洋の土人がすこぶる単純な原始的な笛に妙なる知く、アイヌがまた横笛がすこぶる上手だというように、人間はどうしても自然の声を楽しむのであろう。
その声は楽器を通して表われ来りまたそれを楽しむ、という訳である。
音楽と舞踊とは調和せるもののようで、乞食も夏の晩はよく踊る。
笛や太鼓代りや篠笛などで囃して夜の更けるのを忘れる場合もある。
したがって笛など楽器の如きものは皆各々が上手に製造するのである。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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