Up 浄穢不二 作成: 2025-02-07
更新: 2025-02-08


      清水 (1934), pp.234, 235
    その小屋には中央に炉を切って自在鍵で上下自由に出来るようになっているのであるが、その自在鍵にはいつもふるすぼった鍋がかかっていてそれで一切のことが弁ぜられるのである。
    飯も煮る、副食物も煮る、時には顔をも洗うこともあれば、不浄ものさえ洗うのである。
    浄穢混合である、むしろそのままが浄穣不二になっている。
    だから初めのものはなかなかちょっとそれだけでも辛抱が出来ないのである。

      同上, p.235,
    ‥‥‥習慣とはいいながらも便所を持たない。
    自然のままに便ずるので、ネスから入ったものはちょっと閉口するのである。

      同上, p.252,
    ‥‥‥私はチャンの了解を得て便所を造ったことがある。
    そして皆の人達にも便所を造ったから、用便の時は便所へ行くようにしてくれと頼んだのであった。
    皆も喜んでくれたのであったが、いよいよとなると便所へは行かない。
    私は、なぜ行かないのかいと尋ねると、行つてはみたが生れて初めてやることだから便所の中では気持ちが悪くて出ないのだよ、と笑っている。
    やはり俺らは広々とした山の便所がよいからな。
    と、そうしたものであろう。
    しかし私は困ったものだと思った。
    それからいろいろ頼んで行ってもらうことにしたが、ようやく行くようにはなったのであるが、便所を不潔にして困った。‥‥‥
    私はせめて今少しく綺麗に出来ないかねと相談すると、ある一人が
    「俺らは決して不潔にしようとして積くしているのではない。初めて便所なんかに行くのだから、中心が取れないのでうまく真ん中の見当が付かんのや」
    と云う。
    これはちょっと嘘のような事実である。
    こうした生活状態から文化人に一足飛びに飛び込むことは不可能なことである。
    ところが不潔の場所を掃除しようとはしない。
    私は、あまり穣いから綺麗にしたらどうかと言うと、何が穢いのだいと一笑に付してしまう。
    それは悪意でもなんでもない。
    清潔観念のないものには不潔ということがないのである。



    引用文献
      清水精一 (1934) :『大地に生きる』
        谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.