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清水 (1934), pp.241, 242
しかし親子の関係である。
孝に至つてはすこぶる問題にならないのである。
教えのないところであるから、親に孝をせよと言うことは無論云われていないのである。
また親も子に対して孝行をせよということは要求していないのであって、考え方によればむしろ孝そのものの根元に触れているとも解し得られる。
吾々一般社会においては、常に親孝行は君に対する忠と共に子供の時分から教えられたものであった。
それだけに真の孝には触れ難いにしても一種の概念と常識を持っているが、彼らは吾々が持っているような概念は持っていないのである。
ある時、私は十五六歳の男の子に
「親を大切にせねばならぬと思うかね」
と尋ねたところ、その少年は妙な顔をして私を見ているのである。
そして
「俺ら親が無いんだからね」
と云う。
私は
「それでもお母があるじゃないか。孝行せねばならんとは思わんか」
と尋ねると
「お母は好きだ。しかし孝行てなんだい」
と笑っている。
子が親を思慕する情は自然である。
しかし特に孝行せねばならぬとは思わぬのである。
大体こうした人達は、親の判明しないものが多いのでもある。
ことに母権時代に等しいものであるから、母親は持っていて一緒に暮らしている者は比較的多いが、父を持って一家を組織しているというものは全く稀である。
それだけ境遇上親と言う観念が判然としていないのである。
時々子供は言っている、俺らは親に養われては来ていないのだ、生れながらにして稼いで食って来ているからな、むしろ親を養っているくらいだよ、とうそぶいている。‥‥‥
私はある時、お前は親に世話にならぬと言うが、それでも親に生んでもらっただけでもありがたいじゃないかと尋ねてみると、即座に、親に生んでもらわなかったら、こんな乞食をして歩かなくてもよかったんだい。
私はむしろ生んでくれたことすら恨めしく思う場合があるともいう。‥‥‥
しかし魅せられたのは、親の持つ子に対する感情でありまた思想である。
それは決して子に孝を要求しないのである。
子供は子供として一人前の乞食になってくれればそれでよいと諦観している。
決して老後の養いなどは子に対して要求しないのである。
酬いを求めると云うことをしない。
「死ぬるまで乞食するだ。死ぬときは死ぬだけのものさ」
と平気である。
これは生活の基調が吾々一般人と違うからでもあろう。
別に老後に対する不安はないのである。
乞食はむしろ老人の方が稼ぎは便利であり収入はよいのだから。
動けなくなれば団体で相互扶助を徹底的にやるから敢えて吾々社会人の持つような老後における生活の保証を決して子に求めんでもよい。
また子も特別に親に対してどうせねばならぬとは考えていない。
ただ親子の持つ至情は人間である限り同じことであるから、やむにやまれぬ子が親を思う情、それが自然に表われて来る。
その自然の行為を孝と強いて言えば言えるのである。
したがって実際から言うと、かえって親子の関係などは吾々社会人よりは調和的に円満によく行っているので、私は大いに考えさせられる場合が多かった。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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