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清水 (1934), p.244
恋愛は‥‥‥こうした人達の中においても‥‥‥当然のことである。
元より恋愛観とか恋愛の思想とかいうものはないのであるが、恋愛の事実はあり、それに伴う人間的感情は当然に動くのである。
しかし不思議にも恋愛は同室の小屋では決して生れないのである。
あまりに寝食を共に親しくする関係上兄妹のようになってしまうからでもあろうが。
兄妹が年頃になって一緒に寝たからとて別にそうした関係にまでは及ばない。
貧民窟辺で行われるものは例外であるが、比較的乞食にはこうした関係が少ないのである。
そこが貧民窟と乞食とは違うところである。
むしろ貧民窟辺りでは、恋愛など言うよりもかえって性の本能を満たすべき行為が旨になっているのではなかろうか。
乞食の恋愛は甲の小屋と乙の小屋との間には随分生れるものである。
また時としては阿倍野の娘が長柄の息子に恋することなどもある。
ただ小屋の少ない団体においては自然外部に相手を求むるの余儀なきになるから、その場合は外の仲間のもの同士の間に生れる場合が多いのである。
一度恋愛が成立すると、なかなかそのローマンスなども原始的である。
月の光を浴びつつ口笛を合図に女を呼び出す男の純なる愛はよくその焦燥的気分の中に表現されて面白いものである。
由来恋というものは情熱的なものではあるが、感情にのみ生きているというべき乞食の恋愛は実に激しいものである。
そしてそれは案外自由に行われるのである。
それに対する社会的制裁などはないのだから、すこぶる自由な天地である。
恋愛と結婚とは不可分の問題である。
ことにこうした人達にとってはなおさらである。
すぐに霊肉一致の境にまで行ってしまうのであるから、プラトニックラブなどはこの世界には見られない。
プラトンのような締麗な恋愛観はこうした人間の間には望めない。
むしろ恋愛も性の本能に踊らされている一現象に過ぎないと観るべきが正当であろう。
お互いの間にそうした関係が深まって行った頃には、チャンが仲媒人となって一応結婚の形式は行う。
なかなか乞食の婚礼は古典的なものである。
そして新しい夫婦に対して皆のものが祝うのであるが、その祝いには新しい小屋を建てて祝いとして贈る。
そこに社会道徳の一面が覗われている。
婚礼の儀式があるときには御馳走をして騒ぐが、そうした費用は全部団体の経済で支弁するのである。
今日は皆しっかり稼いで来いよ、誰それの婚礼だからとチャンの命令が降るのである。
そうした時は皆が一生懸命に、時間を延ばして稼ぐ。
婚礼の儀式は簡単なものであるが、後の騒ぎがなかなかだ。
徹夜して食い、飲み、踊り、歌う。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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