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清水 (1934), pp.243, 244
夫婦間の道徳観、これは一般人のものとは全く違っているのである。
吾々一般人は夫婦二世と言う考えでいるが、乞食の人達は合せものは離れもの、と思っているのであって、夫婦生活の間がすこぶる短期間である。
早きは数ヶ月、永くても数年というものになると比較的少ないのである。
すこぶる原始的であることは他のすべてを共通している。
「お互いに厭になったら離れるじゃ」
と平気でいる。
新しい言葉で言えば恋愛の高潮期が夫婦だ、冷えて来れば離れるまでだ、と云うことになる。
そじてすぐに新しい夫婦生活に入るのである。
そこにはあまりにも未練が残ったりしないようである。
すこぶる単純に行われていて決して道徳的に悪いとは思っておらぬのである。
したがって第一の子、第二の子、皆父親が違うことになるが、子供は皆母親に付属して育って行くのである。
母権時代そのままである。
そして吾らの如き経済組織の範囲から脱しているのであるから、いくら子供が多くても生活苦は決して感じない。
むしろ子供のある方が財産がある訳だから夫婦生活の離合集散は案外無造作に行われる。
ただそうした関係であっても夫婦間の愛情は比較的濃厚なものであって、決して三角関係とか、また貧民窟などで見るような乱婚などは無いのである。
貧民窟などに表われている乱婚の知きは、むしろ経済的関係が主なる原因と見られるが、乞食にはそれが無い。
性に対する道徳観、まあ恋愛関係について一言しておくことにするが、性に対してはほとんど本能的である。
決して道徳的に深く考えられていない。
ただ生活環境のしからしむる点でもあるが、性に対しては羞恥観念もなく、一般人から見るときはちょっと想像のつかぬ状態である。
性の衝動のままにその行為に移す。
決して人の前をも憚らないという有り様である。
私は初めて仲間に入ったとき一番驚いたのはこの問題であった。
ちょっと考えてみると何ら動物と違いないようにさえ考えられるが、さらによく実状に徹してみると無理からぬ点と、習慣性がかくせしむるものであるとしみじみ思われるのである。
こうした乞食の人達の生活が一つの小屋の中に密集生活をしている、夫婦の室と言うような特別のものが無いのである。
自然本能の要求から他人の前でも憚らぬようになってしまうのである。
またさらに習慣にまでなって平気に考えられ、また平気に行われるのである。
現今の文化人といえどもそうした生活の環境におかれる時は、やはりそうした人間になってしまうのではあるまいか。
そこに生活の様式及ぴ実際はそのまま道徳の顕現とも見得らるると思うのである。
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引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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