Up 「アカデミック・アドバイザー」 作成: 2010-03-11
更新: 2010-03-11


    「アカデミック・アドバイザー」とは,学生に自分のアカデミック・アドバイザーをもたせる制度のことである。 ここで,アカデミック・アドバイザーを制度にまで持ち上げているところのこれの役務は,《大学への学生の各種届けに,承認の押印をする》である。

    翻って,この制度が「正しく」運用されるときには,学生の届けの内容がもとで起こるトラブルはアカデミック・アドバイザーの責任になる。 すなわち,アカデミック・アドバイザーは,「職務不作為」のかどにより,なんらかの懲罰を受けねばならない者になる。


    この場合,最もトラブルを招きやすいのが,科目履修の届けである。
    例えば,卒業期の学生が,卒業要件を満たさない内容で科目履修の届けをしてしまうということが,起こり得る。 このような場合,対応措置がどのような形であれ,ひどい禍根を残すことになる。

    必要単位の計算は,簡単ではない。 そして,どのように科目履修するかは,学生が自ら立てる学習計画のうちにある。 よって,よほどカリキュラムを熟知している者でなければ,学生一人ひとりの科目履修届けを間違うことなくチェックするなど,できるわざではない。


    こういうわけで,アカデミック・アドバイザーは,生半可でできる役務ではない
    実際,アメリカの大学の場合,教員がアカデミック・アドバイザーに就くときは,専門職員のようになる。

    「法人化」の国立大学の場合は,こうではない。
    欲しかったものは,『中期計画・中期目標』の一項目にするための「アカデミック・アドバイザー」のことばであった。実質は後回し。

    実際,「法人化」の国立大学の「アカデミック・アドバイザー」は,おおよそ,つぎのように決められている:
      入学生のアカデミック・アドバイザーを,学生が所属する専攻・コースの教員の中から,ローテーションで決める。
    学年が持ち上がっても,アカデミック・アドバイザーの関係を継続する。
    ただし,学生のゼミ配属が決まったところで,ゼミ教員をアカデミック・アドバイザーにする。
    特に,教員全員が「アカデミック・アドバイザー」を受け持つことになる。

      例 :北海道教育大学ホームページの「アカデミック・アドバイザー」についての説明
    学生に対する適切な修学指導を行うため、個々の学生について、学生が所属する専攻・コースの教員が指導教員(アカデミック・アドバイザー)となり、学生の修学指導に責任を持ち、入学時から卒業まで継続的に指導する体制をとっています。 指導教員(アカデミック・アドバイザー)は、以下に示すような役割を担うほか、恒常的に学生の修学に関して適切な指導・助言を行うこととしています。
    • 学生の履修登録状況及び成績を絶えず把握し,必要な指導・助言を行う。
    • 学生が行う履修登録,履修登録の変更、履修取消申請、休学や病気等やむを得ない事由による履修取消申請に承認を与える。
    • 学生の休学、退学、留学、転校、転専攻・コース、転学等身分異動に関して指導・助言を行い、願い出に承認を与える。


    生半可でできる役務ではないアカデミック・アドバイザーに,教員全員が就く。 よって,「アカデミック・アドバイザー」が制度として正しく運用されれば,必ずトラブルが発生し,「職務不作為」の懲罰問題に進む。
    翻って,「アカデミック・アドバイザー」制度の運用の要諦は,これを正しく運用しないことである。
    「正しく運用しない」とは,どういうふうにすることか?
    学生に対し「これでよい」は言わない,ということである。

    トラブルは,ほとんどの場合が,《大学側が学生に対して「これでよい」を言い,そしてそれが間違っていた》である。 また,トラブルはほとんどが,「親切でやったことが仇になる」場合である
    これでよい」を言ったつもりがなくても,学生が「これでよい」と言われたと思ってしまえば,言った・言っていないの水掛け論になる。

    これでよい」を言わないとは,どう言えばよいということか?
    つぎのように言うのが,アカデミック・アドバイザーの作法ということになる:
      内容がほんとうに適切かどうかまで,わたしは判断できない。
    わたしのこの押印の意味は,「あなたが自己責任でこの届けを出すことを認める」である。

    実際,「法人化」前の国立大学では,このようにしていた。 すなわち,今日「アカデミック・アドバイザー」の役務の内容とされるものは,つぎのように処理されていた:

    • 学生の履修登録状況及び成績の把握は,学生本人の自己責任。
      必要な指導・助言は,教務事務員でこれを専門に担当する者 (=内容を熟知している者) が行う。
    • 学生が行う履修登録,履修登録の変更、履修取消申請、休学や病気等やむを得ない事由による履修取消申請は,学生が所属する専攻・コースの教員が,学生が自己責任で行うこととして,承認を与える。
    • 学生の休学、退学、留学、転校、転専攻・コース、転学等身分異動は,指導・助言を求められた教員は,「自分の考えでは」の留保を付して指導・助言を行う。また,これらの願い出に対しては,学生が所属する専攻・コースの教員が,学生が自己責任で行うこととして,承認を与える。


    「法人化」前のこのやり方に対しては,つぎのように言う者が出てくるかも知れない:
     いまの学生は,脆弱であり,自己責任を求めることはできない。
     そこで,アカデミック・アドバイザーが必要になる。
    このように言う者には,つぎのように返すことになる:
     いまの学生が,ほんとうに脆弱であり,自己責任を求めることはできない者であるならば,彼らをほんとうに適切に指導できる者をアカデミック・アドバイザーとして立てなければならない。そして,学生の所属する専攻・コースの教員であることは,このアカデミック・アドバイザーの十分条件ではない。
    大学教員は,学生に対する教務的指導・生活指導の能力の高さによって,大学教員になっているのではない。 専門の能力の高さによって,大学教員になっている。 大学とはそういうところである。 ここを間違ってはならない。


    そして,ひとはそもそも,身一つでいろいろな雑務を隙間無く・間違いなく果たすことなどできない。 ( 分身の術)
    学生の届けを承認する押印で「これでよい」は言わないことを作法とするのは,「責任逃れ」としてこうするのではない。 「負えない責任は,負わない」ということである。
    実際,負えない責任を負えるふりをすれば,学生にほんとうに被害を与えることになる。

    しかし,「法人化」の国立大学では,体裁から,ひとのできないことを求める制度・規則・取り決めが簡単につくられる。 そして,自分で自分を縛り,自分で自分の首を絞めることになる。