Up 《「相対性」の意味の押さえが成っている》ということ 作成: 2018-01-06
更新: 2018-01-06


    ひとが物事を論じるとき,その物事を特定していない。
    ひとは,物事を特定せずに物事を論ずる。
    どうしてこうなるかというと,ひとはもともと「物事を特定する」という概念をもたないものだからである。
    だからこそソクラテスの「無知の知」の説諭があり,公理主義の方法論が『ユークリッド原論』となって出てくるわけである。

    物事を論ずるときの肝心は,その物事を先ず以て特定することである。
    しかし,この肝心は実行されない。
    実際,肝心はいつも最後に気づかれるものである。


    「一般相対性理論」をテーマにしたテクストは,きまって「相対性」の意味の押さえが成っていない。

    「重力で空間がゆがむ」を述べて,しかし「だれにとってのどんなことが "ゆがみ" なのか」をきちんと表現することができない。
    重力方程式のシュワルツシルト解
    を述べるも,<定数の設定>や,計算の途上でその都度追加される<条件の制限>を,すべてを見渡せる超越者の視線で論じてしまう。
    「シュワルツシルト半径」は一つの相対性である。しかしこれの相対性の相 (「だれにとってのどんなことが "シュワルツシルト半径" か」) を述べるという概念を欠いているので,絶対的な量の趣で論じてしまうのである。


    「一般相対性理論」は,一つの論理ゲームである。
    論理ゲームは,肝心が抜けてしまうと,アブストラクト・ナンセンスや荒唐無稽の遊びになる。
    「一般相対性理論」をゲームするときの肝心は,「相対性」の意味の押さえが成っていることである。