Up 「無用の用」: 要旨 作成: 2013-11-10
更新: 2013-11-10


    学校数学の存在理由は,つぎのように論ずるものになる :
      数学で勉強した内容は使うことがない。
      勉強した内容も忘れていく。
      一方,この勉強は成長の要素であり必要である。
    形としてこれは「無用の用」論である。

    個々の経験に対し,カラダはこれにリアクションする趣で自身を変容する。
    そして,経験は累積し,カラダの変容は進行する──「成長」。
    一つの経験に応じたであろうカラダの変容は,「成長」の中に埋没し,跡を留めない。
    しかし,この経験を「無用」「無くてよいもの」とすることはできない。 なぜなら,これを「無くてよいもの」とすれば,経験の後続が無くなる。 しかも,すべてが「無くてよいもの」になってしまう。 結局,カラダの所在が無くなってしまう。
    この構図を,経験の「無用の用」として見る。

    ここで謂う「無用の用」は,経験の「無用の用」である。
    「無用の用」は,『荘子』に出てくるものである。
    この論法を適用する:
      「埋没」の相で見られた経験は,個々には「無用」に見える。
      それは「無用」か?
      「無用」を言い出せば,あれもこれも「無用」になる。
      翻って,成長のいまの相は,「無用」でなっている。
      「無用」は「用」である。

    わたしは,「2次関数」の学習を経験してきている。
    この経験は,いまのわたしにとって「無用」のふうに見える。
    しかし,いまのわたしは,この種の「無用」で成っている。
    「2次関数」の「無用」は,「無用の用」である。