Up はじめに 作成: 2013-11-08
更新: 2013-11-08


    本論考は,「学校数学」の意味の論考である。
    これを,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりとして行おうとしたものである。

    数学教育学を生業とする者は,「学校数学は何のため?」の答えづくりを,自身のうちにずっとあたためる者になる。 一方,これは先延ばしにするということである。
    なぜこうなるかというと,単純に,「学校数学は何のため?」の問いをどう扱ってよいかわからないからである。
    どう扱ってよいかわからないのは,学校数学がそもそも見えてこないためである。

    しかし,生業を閉じる年齢が近づいてくると,「学校数学が見えてこない」を言ってられなくなる。 「もう先延ばししているわけにはいかない,いまが最後」というわけである。
    そしてやはり,「境地というわけではないが,むかしよりはだいぶ見えてきた心地がする」の思いがもたれてくる。
    というわけで,本論考への着手となった。


    いろいろ習作をやって最終形に整えるのは,本論考の場合も同じである。
    自分で自分を律するのはわたしの苦手とするところなので,そしてゆったりと進めることがこの場合だいじなことになるので (ゆっくりやっても「これはしくじった」となる作業であるので),年に1度の学会の論文発表会を自分の縛りとして利用させてもらった:
      2008 数学教育学とは何か
      2009 学校数学の<役に立つ・立たない>とは何か
      2010 学校数学出口論主流の意味
      2011 学校数学「無用の用」論の方法
      2012 学校数学「何でもあり」論の方法
      2013 「学校数学=形式陶冶」論の方法
      2014 「授業等価/授業運」論の方法


    本論考は,学校数学の現前を「何でもあり」と押さえたうえで,これを全肯定しようとする論である。
    即ち,本論考の思想を
      現前は<理>を現す
    に定めて,つぎを学校数学の捉えとする:
      学校数学は,これが何ものであるかを知らずに,行われる。
       一方,これを行うことは,多分当たっている。

    本論考は,つぎの問いを立てこれに答えるというものである:
    1. 学校数学は,何の実現になっているか?
    2. 学校数学は,何であることを以て,それを実現しているか?
    当て込む答えは,1, 2 それぞれに対し,つぎのものである:
    1. 学校数学は,<形式が届くカラダ>をつくる
    2. 学校数学は,生徒に<ジタバタ>をさせるもの
    1 は,「学校数学=形式陶冶」の論になる。
    2 は,最終的に「授業等価」の論にしていく。