Up | はじめに | 作成: 2013-11-08 更新: 2013-11-08 |
これを,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりとして行おうとしたものである。 数学教育学を生業とする者は,「学校数学は何のため?」の答えづくりを,自身のうちにずっとあたためる者になる。 一方,これは先延ばしにするということである。 なぜこうなるかというと,単純に,「学校数学は何のため?」の問いをどう扱ってよいかわからないからである。 どう扱ってよいかわからないのは,学校数学がそもそも見えてこないためである。 しかし,生業を閉じる年齢が近づいてくると,「学校数学が見えてこない」を言ってられなくなる。 「もう先延ばししているわけにはいかない,いまが最後」というわけである。 そしてやはり,「境地というわけではないが,むかしよりはだいぶ見えてきた心地がする」の思いがもたれてくる。 というわけで,本論考への着手となった。 いろいろ習作をやって最終形に整えるのは,本論考の場合も同じである。 自分で自分を律するのはわたしの苦手とするところなので,そしてゆったりと進めることがこの場合だいじなことになるので (ゆっくりやっても「これはしくじった」となる作業であるので),年に1度の学会の論文発表会を自分の縛りとして利用させてもらった:
本論考は,学校数学の現前を「何でもあり」と押さえたうえで,これを全肯定しようとする論である。 即ち,本論考の思想を
本論考は,つぎの問いを立てこれに答えるというものである: 2 は,最終的に「授業等価」の論にしていく。 |