Up | 要 約 | 作成: 2013-11-08 更新: 2013-11-08 |
これを,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりとして行う。 1.「学校数学は何のため?」の問いの画定 「学校数学は何のため?」は,つぎの意味に受け取るものではない:
これは,一つの生態系として現前している。 生態系は,目的に拠って立つものでない。 学校数学は,これを所与とする者にとって,目的に拠って立つものでない。 (『「学校数学=生態系」論』) そこで,「学校数学は何のため?」を,つぎの問いに代える:
「学校数学は,何の実現になっているか?」の答えは,多様なものになる。 実際この多様性は,特に,つぎの「誰・どんな」の多様性である:
一方,「誰にどんな得?」の問いは,「誰」が「生徒」の場合が,根本的な問いになる。 そこで,「学校数学は,何の実現になっているか?」「学校数学は,誰にどんな得がある?」の問いを,生徒からのつぎの問いに画定する:
生徒からの「学校数学の勉強は何のため?」「学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いは,どう答えることになるか? ここで,生徒も多様であるが,「学校数学」も多様である。──実際,「何でもあり」である。 (『学校数学は「何でもあり」』) そこで,この問いをさらにつぎの問いに画定する:
2.「得は,形式が届くカラダ」を答えにする 本論考が求める「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」に対する答えは,すべての生徒に均しく答えになるものである。 「自分」の多様性を鎮めること,これが答えづくりの方向性・要諦になる。 このとき,本論考はつぎをロジックを用いる:
ここで,本論考の謂う「形式陶冶」は,<形式が届くカラダ>づくりである。 形式は,(「認識形式」のような言い回しに現れてくるところの)「内なる形式」ではなく,「外なる形式」である。 「形式陶冶」は,勉強とカラダの間に因果の対応関係が立つものとはしない。 勉強にカラダを対応づけようとすることは,一種のカテゴリー・ミステイクであるとする。 3. 比較:「生きて働く力の陶冶」タイプの出口論 学校数学の歴史に,「形式陶冶説批判」の一項がある。 「形式陶冶説批判」は,反照的に,「形式陶冶」の自身の解釈を示すものである。 その解釈は,「作用主陶冶」である。 (『「形式陶冶説批判」とは何であったのか?』) 学校数学の出口論は,「生きて働く力の陶冶」の形につくられる。 そして,この「生きて働く力の陶冶」は,「作用主陶冶」の考えである。 よって,これは「形式陶冶説批判」が批判するところのものになる。 しかし,「生きて働く力の陶冶」出口論は,「形式陶冶説批判」を以て無意味になるというものではない。 「形式陶冶説批判」は,単純に,学校数学 (生態系として) における作用主陶冶説 (機能として) の位置づけを,し損じた。 学校数学は,「生きて働く力の陶冶」を命題にして自ら生きる系である。 学校数学は,一つの企業経営体である。 企画部があり,営業部があり,開発部がある。 企画は, 「学校数学=作用主陶冶」を出口論の形に企画する。 営業は,この「学校数学=作用主陶冶」を営業する。 「数学的○○」は 20年期間企画,「新指導要領」は10年期間企画ということになる。 「学校数学=作用主陶冶」企画・営業のしくみは,つぎのようになる:
「学校数学=作用主陶冶」は箱物であるが,箱物であることがまさに要点になる。 学校数学は,この箱物を見出したことで,持続的企業経営の方法として,<繰り返し>を用いられるようになった。 ──持続的企業経営の方法になっている<繰り返し>には,もう一つ,「生活単元」と「基礎基本」の振り子運動がある。 4.「授業等価/授業運」 問い「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」に対する「得は,形式が届くカラダ」の答えは,しかしまだ問いを収めるものにはならない。 「得」の「なに」を答えただけで,「どれだけ」を答えていないからである。 実際,授業は「何でもあり」である。 問いは,さらにつぎの問いに転じることになる:
「他と比べてどんな?」の答えをつくるためには,授業の「何でもあり」の構造的捉えが必要になる。 「何でもあり」は,つぎの二つの複合である: 「教員の授業力」を考えるとき,「授業」については「授業になっている・なっていない」を考えることになる。 「授業になっている・なっていない」の謂う「授業」は,授業が最も還元された相を指す。 本論考は,これを「生徒にジタバタさせる」にする。 「授業になっている・いない」は,「生徒がジタバタをする・しない」である。 そこで,「何でもあり」の意味として,つぎの2つが区別される: 「他と比べてどんな?」に対する答えは,「比べる」が 1, 2 いずれの中でのことかで,違ってくる。 「比べる」が 1 の中でのことである場合,本論考は「授業等価」を答えにする。 ──つぎのように答えることになる:
「他と比べてどんな?」に対する答えづくりは,「授業等価」を「授業運」の初等段階にするものになる。 最終的に出すべき答えは「授業運」の方であり,これは「授業等価」の場合よりはるかに複雑なものになる。 「授業運」の論は,「授業運」の答え──「あなたの場合は,当たり [外れ] である」──の後に続くものに向かう。 実際,生徒は「授業運」を所与とするのみの者である。 このとき,「文化」が浮かび上がる。 「授業運」がどう受け取られ・扱われるか,それは文化である。 |