Up 得は,形式が届くカラダ」 : 要旨 作成: 2013-11-08
更新: 2013-11-08


    本論考が求める「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」に対する答えは,すべての生徒に均しく答えになるものである。

    このとき,本論考はつぎをロジックを用いる:
    • 学校数学は「形式陶冶」として立つのみ
    • 学校数学の「無用の用」
    そして,つぎの答えを引き出す:
      得は,形式が届くカラダ

    ここで,本論考の謂う「形式陶冶」は,<形式が届くカラダ>づくりである。
    形式は,(「認識形式」のような言い回しに現れてくるところの)「内なる形式」ではなく,「外なる形式」である。
    「形式陶冶」は,勉強とカラダの間に因果の対応関係が立つものとはしない。 勉強にカラダを対応づけようとすることは,一種のカテゴリー・ミステイクであるとする。


    (1) 「形式」の存在措定 形式は,「カラダの内なる形式」ではなく,「カラダの外なる形式」である。
    カラダは,外なる形式に対する同調・受容・反応器である。

    (2) 「「外なる形式が自分に届く」とは? カラダがつくられていない段階では,世界はノイズないしのっぺらぼうである。
    カラダがつくられてくる (「成長」) に応じ,世界は輪郭・形──形式──を現してくる。

    「同型・異型」の「型」が,形式である。
    「転移」は,カラダが同型・異型に反応する様を指示することばである。

    (3) 「「形式が届くカラダ」の成長 「成長」は,形式が届くカラダの形成である。
    形式が届くカラダの形成メカニズムは,経験の「堆積と風化」,経験の「無用の用」である。
    形式が届くカラダは,直接造形できない。 「堆積と風化」「無用の用」という迂遠を通して,造形になる。

    「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これの「風化」として現れてくるものが「形式をとらえるカラダ」である。
    あるいは,「勉強」は,これの累積のうちに勉強個々を「無用」に現し,「形式をとらえるカラダ」を勉強個々の「用」に現していくプロセスである。

    (4) 「「形式」の個人差 「堆積と風化」「無用の用」の個人差は,「形式が届く」の個人差を導く。
    「形式が届くカラダ」は,特に「形式が届く年齢 (経験年数)」の主題を導く。