Up 「形式が届くカラダ」の成長:要旨 作成: 2013-11-09
更新: 2013-11-18


    <形式が届くカラダ>の形成──この意味での「形式陶冶」──を,どのようなものとして考えるか?

    「形式陶冶」は,「この勉強をすると,この形式」の因果物語にはならない:
      「形式陶冶」は,ストーリーがない

     註 : 本論考は,勉強内容 (数学) と形式の対応理論を退ける。
    特に,「数学的○○の陶冶」を退けることになる。

    では,「形式陶冶」は,ストーリーがない」に応じる成長モデルは?

     註 : この問題は,定めし,歴史学の根本問題「歴史にストーリーはあるか?」と同型である。


    (1) 「契機」モデル
    「勉強する」を,「食べる」と同型にしてみる。
    「食べる」では,
      「○○を食べると,こういうカラダに」は間違い
        (○○=ホウレン草)
    「食べる」を「勉強する」に置き換える:
      「○○を勉強すると,こういうカラダに」は間違い
        (○○=2次方程式の解の公式)

    これの説明になる成長モデルとして,つぎのモデルを立てる:
      食べる  ─(契機)→ 活動 ─(リアクション)→ カラダ
      勉強する ─(契機)→ 活動 ─(リアクション)→ カラダ

    「活動」が間に挟まることが要点であるが,実際これにはつぎの意味がある:
      <偶然>が挟まる
      <社会性>が挟まる

    「<偶然>が挟まる」は,「「○○を勉強するとこういうカラダに」とはならない」の含蓄がある。

    「<社会性>が挟まる」は,「<学校数学を勉強する>自体は,<社会性>を生まない」の含蓄がある。
      例えば,都会での数学の勉強と,田舎での数学の勉強は,<社会性>で違ってくる。


    (2) 「新陳代謝」モデル
    <○○の勉強>は,カラダの新陳代謝の契機である。
    この定立には,つぎの含蓄がある:
      「《○○をカラダの内に蓄える》ではない」

    実際,「食べる」では,
      「○○を食べるのは,カラダに○○を蓄えるため」は間違い
        (○○=ホウレン草)
    「食べる」を「勉強する」に置き換える:
      「○○を勉強するのは,カラダに○○を蓄えるため」は間違い
        (○○=2次方程式の解の公式)

    しかし「勉強」は,「内なる蓄積」のイメージがもたれてしまう。
    「内なる蓄積」のイメージは,どこから来るのか?
    それは「勉強=記憶」のイメージ。


    (3) 「風化造形」モデル
    ミクロで新陳代謝であるところの成長は,マクロでカラダの成長になる。
    このカラダの成長は,「風化造形」。
    「堆積」は,つぎの「風化」のステージを期すもの。

    期する形は,直接つくれない。
    「風化造形」という迂遠を用いる。


    (4) 「無用の用」モデル
    「新陳代謝」「堆積と風化」の成長観の要諦は,「無用の用」である。