Up 「授業等価/授業運」定立の必然:要旨 作成: 2013-11-10
更新: 2013-11-10


    問い「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」に対する「得は,形式が届くカラダ」の答えは,しかしまだ問いを収めるものにはならない。
    「得」の「なに」を答えただけで,「どれだけ」を答えていないからである。
    実際,授業は「何でもあり」である。 問いは,さらにつぎの問いに転じることになる:
      自分の得は,他と比べてどんな?

    <「何でもあり」の学校数学>を<すべての生徒にひとしく得のあるもの>として立てるとき,この答えはつぎのものでなければならない:
      違うけど等価だから,気にしなくてよい
    そしてこれは,「授業等価」を立てることである。

    しかし「授業等価」は,これをつねに言うとしたら,間違いになる。
    「授業等価」は,「授業になっている授業」に対して言うことになるものである。 一方,学校数学の「何でもあり」のうちには,「授業になっている・なっていない」がある。 実際,教員の授業力の現状は,「授業になっている・なっていない」を現前させることになるものである。

    そこで,「自分の得は,他と比べてどんな?」の答えは,「授業になっている・なっていない」に対するものも用意することになる。
    その答えは,つぎのものである:
      あなたの場合は,当たり [外れ] である
    そしてこれは,「授業運」を立てることである。