Up | 「授業等価/授業運」: 要旨 | 作成: 2013-11-08 更新: 2013-11-08 |
「得」の「なに」を答えただけで,「どれだけ」を答えていないからである。 実際,授業は「何でもあり」である。 問いは,さらにつぎの問いに転じることになる:
「他と比べてどんな?」の答えをつくるためには,授業の「何でもあり」の構造的捉えが必要になる。 「何でもあり」は,つぎの二つの複合である: 「教員の授業力」を考えるとき,「授業」については「授業になっている・なっていない」を考えることになる。 「授業になっている・なっていない」の謂う「授業」は,授業が最も還元された相を指す。 本論考は,これを「生徒にジタバタさせる」にする。 「授業になっている・いない」は,「生徒がジタバタをする・しない」である。 そこで,「何でもあり」の意味として,つぎの2つが区別される: 「他と比べてどんな?」に対する答えは,「比べる」が 1, 2 いずれの中でのことかで,違ってくる。 「比べる」が 1 の中でのことである場合,本論考は「授業等価」を答えにする。 ──つぎのように答えることになる:
「他と比べてどんな?」に対する答えづくりは,「授業等価」を「授業運」の初等段階にするものになる。 最終的に出すべき答えは「授業運」の方であり,これは「授業等価」の場合よりはるかに複雑なものになる。 「授業運」の論は,「授業運」の答え──「あなたの場合は,当たり [外れ] である」──の後に続くものに向かう。 実際,生徒は「授業運」を所与とするのみの者である。 このとき,「文化」が浮かび上がる。 「授業運」がどう受け取られ・扱われるか,それは文化である。 |