Up | 是非と無縁 | 作成: 2014-07-26 更新: 2014-09-17 |
A. 系は,個の<自分本位>の均衡 学校数学は,人の<生きる>の系として存在している。 そこに棲む者にとって,学校数学は所与であり,自分の<生きる>の場である。 ここでは,学校数学は何かの目的達成のために存在しているのではない. 学校数学での個の<生きる>は,《自分のできることを行う》である。 《自分本位でいく》である。 実際,「自分の遺伝子を残す──その限りでの自分の保守」が,「自分本位」の内容である。 人は,自分の《学校数学を生きる・学校数学に生かされる》を,自分の好ましい形にしようとする。 この行動は,「個の多様性」に応じて,多様なものになる。 学校数学の現前は,この多様性の均衡相である。 <生きる>は,<生きる>ための「何でもあり」を現わす。 実際,自分の<生きる>は自分の周囲との調整である。 このメカニズムが,全体として,<生きる>の「何でもありを以て均衡」を現す。 そしてこれが,学校数学の「何でもあり」を現わす。 ( 『学校数学「何でもあり」論の方法』) 学校数学は,人の<生きる>の手段である。 手段として成立していれば,人にとってそれは「是」である。 逆に,例えば,学校数学を数学にしようとして却って人が係われないものにしてしまうことは,人にとって「非」である。 よって,現前の学校数学は,「是」なのである。 ──「この他にはない (No more than this)」 B. 系にとって,自己維持を実現するものであれば是非はない 自己維持を実現するものであれば,是非はない。 強いて「是」を言えば,自己維持を実現するものが是である。 系は,自己維持に攪乱を用いる。 その攪乱は,系の是である。 C. 個の主観の「是」は,系の攪乱が効用 このとき人は,「是」を行い「非」を行わない。 しかし「是非」は個の多様性の分だけ多様であり,しばしば対立的である。 実際,「是非」は個の思いつき/思考停止である。 ( 『学校数学教員論』 ) 一方,この「是」の行動が,学校数学の系維持にとって必要な攪乱になる。 攪乱の主体は,そこに棲む者である。 その者たちは,「是」を行う。 この「是」の意識で行うことが,「攪乱」になるのである. |