Up | 『現行「数と量」の位相』 | 作成: 2014-09-21 更新: 2014-11-12 |
学校数学では,特に「数と量」の内容を唯物主義的に改変しようとするムーブメントが起こる。 即ち,唯物/物象化論の立場から「数は量の抽象」を唱えた。 これは,当時の文部省の立場となる「数と量」に対抗する構えとされたが,これが斥けようとしたものは,実は数学の「数は量の比」であった。 この対立図式は,当時の当事者においてよくわかっていたかどうか,疑わしい。 実際,これは「割合論争」という形をとる。 対立の勝者は,結局「数は量の抽象」になる。──即ち,「数は量の抽象」が学校数学になる。 この経緯は,いろいろな偶然が重なってこうなったというようにも見えるが,こうなるのが理と捉えるべきである。 以下,このことを見ていく。 非数学の「数は量の抽象」の側は,「何でもあり」が成るところになる。 これに対し,数学の側は、自家撞着の論を退けるところであるから,「何でもあり」は成らない。 「何でもあり」が成るとは,一般参加 (素人参加) が成る──例えば,素人談義で盛り上がることが成る──ということである。 「一般参加が成る」の意味は,「人の<生きる>が成る」である。 <生きる>とは, 「自分の遺伝子を残す──その限りで自分を保守する」 ことであった。 そして,一般者が 「自分の遺伝子を残す──その限りで自分を保守する」 をできる場は,「何でもあり」ができる場,即ち素人のままで活発でいられる場である。 翻って,学校数学が仮に「数は量の比」の側に転がり落ちた場合でも,すぐに 「数は量の抽象」 の側に移動することが見込まれる。 数学の側は<生きる>が成立しないところだからである。 「何でもあり」の側は,定常 (steady)である。 しかし,「何でもあり」と定常が結びつくことは,つぎが起こることを意味する:
実際,「数は量の抽象」は,時の進行とともに学校数学として揺るぎないものになり,いまに至っている。 今日特に目立つ異形の一つに,「比例関係は二重数直線で考える」と「かけ算は比例関係がベース」というのがある。この二つはすぐにもつながって,「かけ算は二重数直線で考える」になる。早晩,教科書の「かけざん」のページに「二重数直線」を見るようになるというわけである。 |