Up はじめに 作成: 2014-02-21
更新: 2014-02-22


    授業/教師/学校は,いろいろである。
    自分の授業/教師/学校は,いろいろのうちの一つである。
    そこで,授業/教師/学校の「当たり外れ」が言われるようになる。

    例えば,教員養成系大学・学部の附属学校はたいてい県庁所在地級都市にあり有名進学校になっているが,そこの授業と僻地の学校の授業を並べてみる。
    どちらの授業を受けられることが「当たり」か?
    定めし,前者を「当たり」にする方が多数派になる。
    実際,前者は「授業のあり方・手本を示していかねばならない」のきびしい立場からつくられる授業であり,後者は,はるかにぬるい立場でつくられる授業である。
    授業の質は前者が高いと考えるのがふつうである。

    しかしここで,つぎのように考えてみる:
      僻地の学校の授業は,自身を以て,附属学校の授業が<大事>とするものを,「たいしたものではないよ」と言っている。
      附属学校の授業と僻地の学校の授業を並べて見ることは,質の違いを見ることではなく,互いを異文化として見ることである。

    例えば,「きびしい・ぬるい」が<作り込み>の差である場合を考えてみる。
    <作り込み>は,<人の手を入れる>である。
    「手入れが多い」が, 「質が高い」の意味になる。
    そして,「手入れが多い」を「質が高い」にするのは,一つの文化というものである。
    この文化に対しては,異文化が立つ。

    実際,物事は,プラスマイナスゼロである。
    どこかが長じているのは,どこかが退行していることである。
    手入れが多いことは,ある大事を退行させていることである。
    逆に,手入れが少ないことは,ある大事を保っていることである。

    こうして,授業/教師/学校の「当たり外れ」は,簡単には言えないものになる。