Up 「遊ばせる力」を,「授業力」の意味にしてしまう 作成: 2014-02-24
更新: 2014-02-24


    「教師」は,授業に自信なくしてはやれない。
    「教師」でいることは,授業に対する自信をつくっていくことである。

    ところで,<教える>の自信は,「自分には数学が十分に身についている」が基になる。
    したがって,「自分には数学が十分に身についていない」を自認する教員は,<教える>とは別のもので自信を得なければならない。
    そして<遊ばせる>が,その「別のもの」になる。

    小学校教員の場合,大学の教員養成課程の学生であったときの専攻が数学教育でなければ,数学の力は文系志望の高校生を超えないふうになる。 専攻が数学教育でも,どれだけ数学の力がついているかは,大いにあやしい。
    よって,よほど勘違いして「自分には数学が十分に身についている」と思っている者でなければ,小学校教員は<遊ばせる>の方で授業に自信を持とうとする。

    「遊ばせる力」は,「一つの素材/題材で生徒を長く引っ張っていくことができる力」である。

    教育実習生が,明日の研究授業を前に,徹夜で兎と亀の見事な絵を描く。
    これは大いに生徒の興味関心を惹くはずだと踏んで,授業に入る。
    無残にも,5分ともたない。
    一方,経験ある教員は,これを授業の最後までもたせてしまう。
    この差が,「遊ばせる力」の差である。
    そして,この差の確信が,自分の授業に対する教員の自信の内容である。

    「遊ばせる力」は,テレビのバラエティーショーの司会が一つの話題を長く引っ張っていく力と,同じものである。 即ち,MC (master of ceremony) の力である。