Up カラダ論は, 無理 作成: 2013-07-14
更新: 2013-09-11


    「内なる形式」の実体的説明は,カラダの説明である。
    カラダの論述は,たちまちことばに窮する。
    この「ことばに窮する」は,構造的・本質的なものであり,こうなるしかないものである。
    どういうことか?
    言い表せるとは,言い表したい対象とことばの間に写像関係が立っているということである。
    しかし,ここでいう「カラダ」は,位相変化する神経細胞のネットワークである。 ことばは,これの写像のようにはできていない。,

    反表象主義の立場で「内なる形式」を立てることは,「形式」を<カラダのリアリティとして説明されるもの>にするということである。──とりわけ,脳神経系の事態として説明されるものにするということである。
    反表象主義の「内なる形式」は,この格好で,カラダ論になる。

    このカラダ論は,無理である。
    即ち,<形式=カラダ>の説明は不可能である。
    そして,「不可能」の意味はつぎの二つである:
    1. カラダのリアリティを同定する技術的困難
    2. 「説明」の構造的無理

    「「説明」の構造的無理」とはどういうことか?
    言い表せるとは,言い表したい対象とことばの間に写像関係が立っているということである。
    しかし,ここで説明が課題になっている<形式=カラダ>は,特に位相変化する神経細胞のネットワークである。
    ことばは,これの写像のようにはできていない。,
    これは,言い換えると,「<形式=カラダ>の説明はことばにのらない」ということである。

    実際,<形式=カラダ>の説明がことばにのることを当てにするのは,表象主義である。
    反表象主義が「内なる形式」を立てるのは,この構図において,自家撞着なのである。