Up 要 旨 作成: 2012-05-11
更新: 2012-07-27


    学校数学が「何でもあり」になるのには,構造的理由がある。
    「何でもあり」は,必然である。

    「数学の授業」とは,「数学の授業」と称されているもののことであり,そしてそれは「数学の勉強」ゲームである。
    教師は,「これが生徒にとっての数学の勉強」と思っているゲームを生徒に与え,生徒にこれをやらせる。
    この「数学の授業」は,教師・生徒の「個の多様性」依存になる。
    これが,「何でもあり」を現わす。

    教師の「個の多様性」の一つとして,数学に対する力を考えてみる。
    数学科の授業はだいたい内容のあやしいものになるが,この理由は,主題になっている数学の修得に教員が追いつけないためである。
    そして,この「追いつけない」は,「物理的に追いつけない」である。
    したがって,数学科の授業は,内容のあやしいものになるのみである。
    内容のあやしさは,数学教員養成の授業にもついてまわることである。

    この種のことが,「学校数学は何でもあり」の構造をつくっている。
    そしてこの構造が,「学校数学は何でもあり」を必然のものにする。