Up 要 旨 作成: 2012-07-29
更新: 2012-08-25


    学校数学は,何でもありである。
    「何でもあり」には,「学校数学は数学ではない」の含意がある。

    学校数学の現前は,学校数学が最大に数学になったときの姿格好である。
    学校数学は,これ以上には数学にならない。

    学校数学が自身を保持する形は,数学であるが,このことは,学校数学のソルーションが数学であることを意味しない。
    学校数学において<当座をやり過ごす・ツケの先送り>が手法になっているのは,学校数学が数学でないためだが,学校数学が数学でないのは,学校数学が数学にならないためである。
    学校数学が数学にならないというところが,決定的なのである。
    このロジックを捉え損なってはならない。

    学校数学が数学ではないのは,これが学校数学の<システム最適>だからである。
    そしてこのときの<システム最適>は,定常均衡──対立するモーメントが均衡して安定────である。
    学校数学には,自身を数学にしようとするモーメントと,数学にしないようにするモーメントがある。

    学校数学の親数学と反数学のモーメントの均衡は,圧倒的に反数学に傾くものになる。
    これは,「学校数学を数学にしようとする試みがもし通れば,甚大な被害を各方面にもたらす」を意味する。
    学校数学を数学にすることは,まったくこの被害とペイするものではない。

    よって,学校数学を数学にしようとする試みが通ることは,決して起こらない。
    そのような動きは,系の自己安定化本能によって,初動段階でたちまち潰されてしまうからである。
    すなわち,学校数学を数学にする行動に対しては,系の抑止機制が,障碍・抵抗・妨害といった形で現れてくる。
    「障碍・抵抗・妨害」の内容は,学校数学の惰性,教育課程の移行措置の困難,教員・生徒の「個の多様性」,教員養成の限界,等々である。

    繰り返すが,学校数学が数学にならないのは,学校数学を数学にする行動がもし起これば,それが大規模な破壊行動になるからである。
    よって,学校数学が数学になることを学校数学の理想として思い描くことも,間違いである。