Up 「個の多様性」の立論は,「何でもあり」の立論に 作成: 2012-08-02
更新: 2012-08-03


    学校数学は,生徒の「個の多様性」を条件に伴う。
    条件の「個の多様性」の意味は,指導法の「個に応じて」と教育目的の「個の多様性の解発」である。

    この「個の多様性」が,数学の授業を何でもありにする。
    学校数学は「個の多様性」を条件に伴い,そしてこのことにより,「何でもあり」になる。

    翻って,学校数学における「個の多様性」を立論するときは,「何でもあり」は (消極的にではなく) 積極的に立論するところとなる。

    論法は,つぎのようになる:
    数学科は,多様な個である生徒それぞれの上に修業を起こすことが役目である。
    修業は個に応じて設計するものになるが,必要なのはそれだけではない。
    修業には,「個の多様性」解発の意義が込められる。
    修業の内容は,「個に応じて」と「個の多様性の解発」の二重の意味を以て,個に依存する。
    「個に依存」のうちには,「内容が数学から逸脱」も含まれてくる。
    数学の視点から見て内容がどうのといった論点は,修業が成り立ってこそのものである。
    以上の意味で,修業は成立第一,内容第二である。
    そしてこの意味で,学校数学は「何でもあり」となる。
    授業の内容が数学としてあやしいことは,授業の意義を損なうものではない。
    数学科の授業は,これに対し内容の学術的妥当性を問うものではない。
    内容の学術的妥当性が問題になるとすれば,それは,<学術的に妥当でない>が<修業実現の障碍>になる場合(註) である。


     註 : 「何でもあり」が「数学」を無視できない理由,それがこれである。
    例えば,数の指導は,目先の方便で「何でもあり」をやってしまうと,後になって破綻の局面を迎える。