Up 学年進行に伴う学校数学自壊の構造 作成: 2012-06-06
更新: 2012-07-29


    現前の学校数学は,数学ではない。
    このことは,内容が数学的に荒唐無稽なものになることを意味する。

    荒唐無稽には,自覚的と無自覚的の2通りがある。
    「自覚的」は,教育的方便 (「嘘も方便」) として荒唐無稽を用いるというものである。
    「無自覚的」は,数学を知らなくて荒唐無稽を数学だと思い,これを用いるというものである。

    しかし,自覚的であれ無自覚的であれ,荒唐無稽を用いたことの以後に対する意味は,一つである。
    荒唐無稽を用いることは,後に来る者がこれのツケを払わねばならないということである。

    数学の授業になっていない学校数学は,<当座をやり過ごす・ツケの先送り>を手法にする格好になる。

    ツケの払いにしても,先送りされる。
    こうしてツケは累積する。
    そして,累積したツケの重さで,学校数学は論理的系の形を保てなくなる。
    そしてついに自壊する。
    それは,修行道場としての学校数学が壊れていくということである。


    数学の授業になっていない学校数学は,生徒を落ちこぼす,「数学嫌い」にするという形でも,自壊していく。

    実際,数学の授業になっていない学校数学は,意味不能の「数学」を行っているわけである。
    意味不能の「数学」は,学年進行とともにますます持ち堪えられないものになる。
    生徒の方も,意味不能の「数学」に次第についていけなくなる。
    生徒は,「数学」が持ち堪えられないものになっても,引き続き「数学」を課せられる立場にある。
    持ち堪えられないものを課せられる者は,それを嫌うようになるのが自然である。
    生徒は,「数学嫌い」を現す。
    そしてついには,「数学」を続けることをやめる。

     註 : 意味不能の「数学」にもなお生徒がついてきているときは,修業とは別の次元の要因 (例:受験の都合) が働いていることになる。

    「数学嫌い」には,道理がある。
    問題は,生徒・教員個人にあるのではない。
    学校数学の構造にある。
    すなわち,<当座をやり過ごす・ツケの先送り>を手法にすることにより自壊していくという構造である。