Up おわりに 作成: 2012-07-03
更新: 2012-08-25


    学校は,勉強させるところである。
    勉強させるとは,修業させるということである。
    そして,修業として「数学の勉強」を実現しようとするのが,学校数学である。

    学校が実施する修業に数学の勉強が取り上げられるのは,数学の勉強が良質な修業になると見なされているからである。
    この「良質」の要素は,特に体系性である。
    実際,体系的でないものの修業は,場当たり的なものになり,そして長続きしない。
    一般に学問は「教科」を形にして修業に用いられるが,その理由は体系性にある。 しかし体系性が学問一般に通じる条件であるとはいえ,数学の体系性は際立っている。 そこで,数学に準じて立てるときの学校数学は,<一貫した内容の趣をもって小・中・高と継続的に修業を構成できる教科>として,際立つものになる。


    しかし,現前の学校数学は,<数学に準じる>を保てていないという意味で,数学になっていない。
    「数学の授業」であるためには,「数学の授業」と称すればよい。
    これは,「何でもあり」ということである。

    このことは,現前の学校数学の問題ではない。
    学校数学は,もともと数学にはなれないのである。
    学校数学は「何でもあり」であるのみである。
    本論考は,そうなる理由を論じてきた。


    「何でもあり」の理由は,「構造」と「システム定常均衡/最適相」のことばで述べるものになる。

    先ず,「何でもあり」は構造的なものである──「何でもあり」は構造敵必然である:

    • 「個の多様性」──教員・生徒の個の多様性──は,この構造の要素である:
      A. 生徒の個の多様性から「何でもあり」に:
        修業は,個に応じてはじめて修業である。
      個の能力に応じた修業が,修業になる。
      修業を相手に課す場合,程度を越えた修業を与えるのは修業にならない。
      そして,生徒の個に応じた授業をつくるとき,「数学に準じる」は保てないものになる。
      B. 教員の個の多様性から「何でもあり」に:
        教員も個として多様である。
      個の多様性が,教員が生徒に課す授業の多様性になって現れる。
      例えば,「数学が苦手──実際,これまでずっと数学をエスケープしてきた」も個の多様性の一つである。 そしてこのときは,「数学に準じる」は当然できないものになる。
    • 数学教育界もまた,経済原理で存在している。
      そして,経済的活力を「何でもあり」によってつくっている。
      これも,「何でもあり」の構造の要素である。

    つぎに,「何でもあり」の構造は,学校数学を含む大きな系の定常均衡/最適相としてある。
    この構造を改めようとすることは,定常均衡/最適状態を壊すということである。
    もし実行されれば,系は大きく損なわれ,各所に甚大な被害がもたらされる。
    そこで,系は,このような試みに対してはすぐに反動し潰すようになっている。
    こうして,学校数学は「何でもあり」であるのみとなる。


    定常均衡/最適相であるとは,「何でもあり」に「それでもよい」が含蓄されているということである。
    では,「何でもあり」が「それでもよい」となるところの学校数学は,何ものだということになるのか?
    修業一般だということである。
    学校数学の「何でもあり」の意味は,「何でも修業になる」である。

    実際,現前の学校数学は,修業になっている。
    そして,全体では,現実的に (すなわち,所与に対し) これ以上は望めない修業になっている。
    実際,本論考は,「学校数学は何でもあり──なぜなら何でも修業になるから」を数学教育の境地・達観と見るのである。

    では,修業一般である学校数学は,なぜ「数学」を体裁とするのか?
    本論考は,「数学」の体裁を「方便」と見る。
    こういうわけで,本論考がつぎに進む先は,学校数学「方便」論である。